臨場感の維持とGTDとタスクシュートと。
目標が達成されたときのことを思い描きなさい、もうそうなったと思いなさいというようなことがよく言われるわけですけれど、これって結構矛盾しませんか?
例えばある資格の合格だったとして、合格したときのことを思い浮かべ、もうそうなったと思ったとしたら、なぜ今勉強する必要があるのかと。
そうですよね。だってもう達成してしまった、受かっちゃった人が必死こいて勉強するわけなですし、もう持っているものを改めて今欲しいと思う人はいないわけです。
この点方法は考えなくて良いとか、自然にやる気がでるとか曖昧な言い方がされていますが、苫米地英人氏の話ではゴールを達成した臨場感を持って今そうなっている自分がどうあるべきかを定義せよみたいなことを言っています。
これだとまだ難しいですが、要は目標を達成した自分が今どのようにしているのが自然かということを考えます。当然ある目標を達成した人は、その目標に関わるようなことをするのが自然であって目標がかなった自分がだらけているわけありませんから、当然動かざるを得ません。これが、ようは臨場感を維持している状態です。目標は達成したと妄想して寝ているだけとは違うのです。
さて、あえてライフハック的なことをタイトルに入れてみたのですが、GTDとか色々な管理法ってあるじゃないですか。でも結局これうまくいきませんよね。なぜでしょうか。
GTDは確かに使えるものだと思いますが、そのままでは多くの人は使えない。
なぜ使えないのかというと僕が思うにレビューがあまりにもしんどいからだと考えています。あくまで僕はです。
収集はみんなやると思うのです、ウキウキで。よしこれで全部書き出したぞと。
そして整理もするでしょう。
さて、その整理されたものを毎日確認したり一週間に一回見極めたりなど、果たしてするんでしょうか、多くの人は面倒でしません。見える化したはずが、見ないものを見たいものに分けられてしまっているのです。おそらく今はやらないタスクややりたくないタスクは永久に見ることは叶いません。結果的にそれらを見ないふりしているからそんなんだったらわざわざタスク管理などやる必要もないという感じでやらなくなってしまうんですね。
そこで僕は考えてやってみました。とりあえず書き出すは書き出す。ただしワンシートで整理をしないというのを試してみました。Evernoteでやりましたが、別にEvernoteじゃなくてもなんでもいいです。紙でもなんでも。
ただ常に目の前に表示させておけるという点でパソコンがいいのではないかと思っています。
やることはGTDと変わらない。Todoと同じだと思うかもしれないけれども、やるかもしれないしやらないかもしれない、あるいは何らかの感情や目標明日から何十年後から死ぬまでとにかくなんでも書き足す。でこのときこだわりすぎないことが肝心です。すべて一気に書き出そうとは思わないで、なんとなく思いつくことがなくなったら潔くやめる。
そして大切なのは階層化したり整理しないということです。
おいおいそれじゃやりにくいじゃないかと思うかもしれない。確かに。
ただ、どうなんでしょう一般人の僕らが書き出すことって果たして何万とあるんでしょうか。多い人で一回に書き出せるものは1000は行かないでしょう。大方初めての人なら100ぐらい書き出せればまあまあと言ったところじゃないでしょうか。
で、仮に100としてそれらの内訳は今やること明日やること一生やらないこと、10年後やること、ただの気持ちなどぐちゃぐちゃになっています。しかしそのリストが常にすべてです。
毎日その中からやれそうなものを実行します。本当は上から実行していくとか、優先順位をつけずに実行していくというのも精神力が強い人ならありです。しかし、僕はそれをあまり推奨しません。なぜかというと強制力になってしまうからです。およそ手を付けられそうなときがくることを信じて大変そうなものはあとにすればいい。しかし書き出した以上、絶対にやらないことでなければ毎日見ることになる。毎日そのリストを見るわけですから。
やることをそのリストから選ぶ以上一日一度はそれを見ることになるわけですから全てのやりたいことややるべきことが常に意識される状態です。
これがGTDだと一度整理したあとさらにその整理されたもののなかから選び出すという、手間のかかる作業が必要です。これができる人っていうのは相当量のタスクを抱えていて今何をしたらいいのかわからない人以外やるだけ無駄というか時間がかかります。収集だけして毎日やれること選んでやる。思いついたらリストに書き足す。これだけでいい。
ただし、僕はタグをつけて検索性を増すことについて悪くないと思っています。また終わったタスクは下の方に移動させるとかそういうことをするのもいいと思います。タグは良いけどフォルダやグループ化リスト化などはあんまり推奨しない。
あくまで日常の雑多なことから目標を叶えることまでのすべてを見られる状態を常に維持しておくことが肝要。見たいものを見るという人間の性質に流されないようにすることです。
そしてなんといってもタスクシュートは必須ではないでしょうか。所要時間を計り、それをベースに一日を組み立てる。
タスクシュートはいろんなアプリやらがありますが、たすくまが今の所一番よいです。
できればたすくまをPCで使えたらなと思うんですが。MacはiPhoneアプリがそのうち使えるようになるとかなんとかなので使えるようになるかもしれないですが。
タスクシュートクラウドでいいなと思ったのはモードという機能でしたね。これは良いと思いました。たすくまにも導入していただきたいかも。まぁぶっちゃけやろうと思えば自分なりのルールを決めて(絵文字にするとか)でできますが。
それもこれもすべて臨場感を保つためのものであって管理するための管理であってはだめだと言うことですね。絶えずゴールの臨場感を持つこと。これです。
なぜ、自己啓発で自己が啓発されないのか。
自己啓発本にハマる人というのは根本的には何かしらの不足ないしはもっとなにか達成したい、あるいは変わりたいと思う人が多いようです。
そこでですが、その変わりたいと思っている人間が選んだ本を読み、その変わりたいと思った人が気に入るような内容をエネルギーとして、果たして新しい人になれるでしょうか。なれないでしょう。
現状の外側に出なきゃいけないんですよ、現状の内側でいくら自分が手を変え品を変えいろんなことをやっても無駄です。
でもどうやって。これが難しいところです。一つは誰かに引っ張り上げてもらう。もう一つは意図的に自己が外に出て視点を変えるしかない。
外に出るためには今の自分が考えているようなことでは到底無理な激烈なゴール設定が必要ということです。そう考えるとことは容易ではないことがわかる。
あなた方のやりたいこと、それがなんであれ殆どが現在の延長線上、つまり現状の内側にあるからだ。お金がほしい、いい仕事に就きたい、モテたい、それらは所詮我々が思いつく(あるいは他人や社会が刷り込んだ)ものでしかない。そんなものはゴールにならないわけで。今の自分じゃ絶対達成できない想像を絶するものをゴールにする。そうして初めて現状を抜け出すことができる。
そういうわけで、自己啓発本、スピリチュアル本は役に立たないのである。
おとぎ話を信じる必要はない。
雑記1
自己肯定感、セルフエスティームなどと最近呼ばれるものですが、僕はこれが必要ないと考えています。
あろうがなかろうが根拠が必要になってくるからです。
根拠のない自信とよく言われますけれど、それは土台苦しいのです。
なぜ我々が自信を持つかといいますと、それすなわち外的要因からです。
自分が現在どのような位置(社会的に)にいるのかで自己肯定感は決まります。
家族から大切にされている、社会の重要なポストにいるなどなど。
そうしますと、ここで
いやいやそうじゃなくてさ、ありのままの自分を肯定することが自己肯定感なんだよというナイーブな話になってきます。
まぁそれはそれで勝手にしたら良いのですが、いずれにしろそれには根拠がなくただ存在自体を愛せよと言われても逆にそんなんできたら苦労しねえよ!と思う僕のような人間は余計苦しむわけです。
で、苫米地英人氏のエフィカシーという言葉を使うのが僕は適切じゃないかと思いました。自己効力感、自己の能力の自己評価ということです。ここに他者や自分が今どうあるかは関係ないということです。
あるゴールを達成する能力が自分にはあると確信することです。あれが自分にはできる、それだけの能力があると思うことです。これは自己肯定感のような曖昧さが必要ない。他者も現在の位置も、ありのままの自分という幻想もない。
例えばあなたがなんでしょう、やりたいこと、俗っぽいことから世界平和までなんかあったとする。
あの大学に受かりたい、あの仕事に就きたい、モテたい、金がほしいなど(こうしたものはゴールにはならないが)こうしたときに自己肯定感を頼りにすると結局が過去の実績周りの評価などが根拠になってきます。ある人は俺はいける!と思うし、ない人はやっぱり俺には無理だなと思う人もいる。
で、エフィカシーで考えたときに自分がそれを達成できるか否かというのは自分が決められるということですよ。その能力があると思えるか思えないかという話です。過去どうだった、今どうだとかではなく、あなた自身がそれを達成できると確信すること以外に必要なことがない。
どっちが楽でしょうか。おそらくできると思うことのほうが楽なのではないでしょうか。
なぜ、自己啓発で自己が啓発されないのか。
自己啓発本にハマる人というのは根本的には何かしらの不足ないしはもっとなにか達成したい、あるいは変わりたいと思う人が多いようです。
そこでですが、その変わりたいと思っている人間が選んだ本を読み、その変わりたいと思った人が気に入るような内容をエネルギーとして、果たして新しい人になれるでしょうか。なれないでしょう。
現状の外側に出なきゃいけないんですよ、現状の内側でいくら自分が手を変え品を変えいろんなことをやっても無駄です。
でもどうやって。これが難しいところです。一つは誰かに引っ張り上げてもらう。もう一つは意図的に自己が外に出て視点を変えるしかない。
外に出るためには今の自分が考えているようなことでは到底無理な激烈なゴール設定が必要ということです。そう考えるとことは容易ではないことがわかる。
あなた方のやりたいこと、それがなんであれ殆どが現在の延長線上、つまり現状の内側にあるからだ。お金がほしい、いい仕事に就きたい、モテたい、それらは所詮我々が思いつく(あるいは他人や社会が刷り込んだ)ものでしかない。そんなものはゴールにならないわけで。今の自分じゃ絶対達成できない想像を絶するものをゴールにする。そうして初めて現状を抜け出すことができる。
そういうわけで、自己啓発本、スピリチュアル本は役に立たないのである。
おとぎ話を信じる必要はない。
雑記1
自己肯定感、セルフエスティームなどと最近呼ばれるものですが、僕はこれが必要ないと考えています。
あろうがなかろうが根拠が必要になってくるからです。
根拠のない自信とよく言われますけれど、それは土台苦しいのです。
なぜ我々が自信を持つかといいますと、それすなわち外的要因からです。
自分が現在どのような位置(社会的に)にいるのかで自己肯定感は決まります。
家族から大切にされている、社会の重要なポストにいるなどなど。
そうしますと、ここで
いやいやそうじゃなくてさ、ありのままの自分を肯定することが自己肯定感なんだよというナイーブな話になってきます。
まぁそれはそれで勝手にしたら良いのですが、いずれにしろそれには根拠がなくただ存在自体を愛せよと言われても逆にそんなんできたら苦労しねえよ!と思う僕のような人間は余計苦しむわけです。
で、苫米地英人氏のエフィカシーという言葉を使うのが僕は適切じゃないかと思いました。自己効力感、自己の能力の自己評価ということです。ここに他者や自分が今どうあるかは関係ないということです。
あるゴールを達成する能力が自分にはあると確信することです。あれが自分にはできる、それだけの能力があると思うことです。これは自己肯定感のような曖昧さが必要ない。他者も現在の位置も、ありのままの自分という幻想もない。
例えばあなたがなんでしょう、やりたいこと、俗っぽいことから世界平和までなんかあったとする。
あの大学に受かりたい、あの仕事に就きたい、モテたい、金がほしいなど(こうしたものはゴールにはならないが)こうしたときに自己肯定感を頼りにすると結局が過去の実績周りの評価などが根拠になってきます。ある人は俺はいける!と思うし、ない人はやっぱり俺には無理だなと思う人もいる。
で、エフィカシーで考えたときに自分がそれを達成できるか否かというのは自分が決められるということですよ。その能力があると思えるか思えないかという話です。過去どうだった、今どうだとかではなく、あなた自身がそれを達成できると確信すること以外に必要なことがない。
どっちが楽でしょうか。おそらくできると思うことのほうが楽なのではないでしょうか。
仕切り直しで1日目
だいぶサボってしまったので仕切り直して一日目からやろうと思う。
メンタルケア メソッド「ヒーリングハート」care02:「良いことにフォーカスする」 -ポジティブ思考とネガティブ思考の比率コントロール-
メンタルケア メソッド「ヒーリングハート」care03:「意固地な心を解きほぐす」 ・自分の心の硬い部分を解きほぐす ・他人への硬い思い込みを解きほぐす
思考習慣 第1巻:グッドトレーニング 良いことを見つけ出す思考と習慣を作りだす。 前向きな考えに意識を向ける思考習慣作り「グッドトレーニング」
新たにこの3つを購入しました。やはりメンタルケアシリーズを土台にココロの栄養ワードをひたすら聴く修行をしていこうかなと。
やるぞおおお
まほー工房チャレンジ4日目&5日目魂の話
シズカになるをやってみたり、ココロの栄養ワードを聞いたり、とにかくやってみています。
良いことが起こりました。テストの点数が上がったということです。ここ数ヶ月精神的にきつくて勉強することができず、寄りにも寄ってテストの前日に相当落ち込んでしまい1時間程度しか眠れなかったのですが、その日もちゃんと音声を聞きシズカになるをやってみたりしていました。
その結果合計点が30点ほどアップし、気分も良い感じです。
ココロの栄養ワードがもしかしたら効いたのかもしれません。応援ボイスよりも栄養ワードの方が聞きやすいと思います。自己肯定感がない人は応援ボイスが少し恥ずかしくなるかも。
ところで一応魔法系なのでスピリチュアリズムとかも絡んでいる感じがしますが、どこまで信じるかという信念の問題があると思います。
まほー工房さんのサイトを見ていますと、魂や転生みたいな話も出てきますが、僕は全く信じていません笑
転生や魂というものを考えることはそれを信じられる人はともかくとして信じられない人が無理に思う必要はないと思います。
僕は魂や輪廻といった話ははっきりいって差別的な考え方だと思っているので採用することはありませんし、そういうものがあろうがなかろうが関係ないというスタンスでやっていきたいと思います。
すべては生まれてから死ぬまでで完結すればいい。確かめようのない生まれる前や死んだ後のことなんかどうだっていい。死んだ後私はいないのだから。生まれる前私はいないのだから。
なので過度にスピリチュアルに寄る必要はないかなーと思ってます。逆にそれらを信じられないからまほー工房さんのものが使えないかというとそうではありません。
今日はこのへんで。