なぜ、自己啓発で自己が啓発されないのか。
自己啓発本にハマる人というのは根本的には何かしらの不足ないしはもっとなにか達成したい、あるいは変わりたいと思う人が多いようです。
そこでですが、その変わりたいと思っている人間が選んだ本を読み、その変わりたいと思った人が気に入るような内容をエネルギーとして、果たして新しい人になれるでしょうか。なれないでしょう。
現状の外側に出なきゃいけないんですよ、現状の内側でいくら自分が手を変え品を変えいろんなことをやっても無駄です。
でもどうやって。これが難しいところです。一つは誰かに引っ張り上げてもらう。もう一つは意図的に自己が外に出て視点を変えるしかない。
外に出るためには今の自分が考えているようなことでは到底無理な激烈なゴール設定が必要ということです。そう考えるとことは容易ではないことがわかる。
あなた方のやりたいこと、それがなんであれ殆どが現在の延長線上、つまり現状の内側にあるからだ。お金がほしい、いい仕事に就きたい、モテたい、それらは所詮我々が思いつく(あるいは他人や社会が刷り込んだ)ものでしかない。そんなものはゴールにならないわけで。今の自分じゃ絶対達成できない想像を絶するものをゴールにする。そうして初めて現状を抜け出すことができる。
そういうわけで、自己啓発本、スピリチュアル本は役に立たないのである。
おとぎ話を信じる必要はない。
雑記1
自己肯定感、セルフエスティームなどと最近呼ばれるものですが、僕はこれが必要ないと考えています。
あろうがなかろうが根拠が必要になってくるからです。
根拠のない自信とよく言われますけれど、それは土台苦しいのです。
なぜ我々が自信を持つかといいますと、それすなわち外的要因からです。
自分が現在どのような位置(社会的に)にいるのかで自己肯定感は決まります。
家族から大切にされている、社会の重要なポストにいるなどなど。
そうしますと、ここで
いやいやそうじゃなくてさ、ありのままの自分を肯定することが自己肯定感なんだよというナイーブな話になってきます。
まぁそれはそれで勝手にしたら良いのですが、いずれにしろそれには根拠がなくただ存在自体を愛せよと言われても逆にそんなんできたら苦労しねえよ!と思う僕のような人間は余計苦しむわけです。
で、苫米地英人氏のエフィカシーという言葉を使うのが僕は適切じゃないかと思いました。自己効力感、自己の能力の自己評価ということです。ここに他者や自分が今どうあるかは関係ないということです。
あるゴールを達成する能力が自分にはあると確信することです。あれが自分にはできる、それだけの能力があると思うことです。これは自己肯定感のような曖昧さが必要ない。他者も現在の位置も、ありのままの自分という幻想もない。
例えばあなたがなんでしょう、やりたいこと、俗っぽいことから世界平和までなんかあったとする。
あの大学に受かりたい、あの仕事に就きたい、モテたい、金がほしいなど(こうしたものはゴールにはならないが)こうしたときに自己肯定感を頼りにすると結局が過去の実績周りの評価などが根拠になってきます。ある人は俺はいける!と思うし、ない人はやっぱり俺には無理だなと思う人もいる。
で、エフィカシーで考えたときに自分がそれを達成できるか否かというのは自分が決められるということですよ。その能力があると思えるか思えないかという話です。過去どうだった、今どうだとかではなく、あなた自身がそれを達成できると確信すること以外に必要なことがない。
どっちが楽でしょうか。おそらくできると思うことのほうが楽なのではないでしょうか。