いーやNotionの使い方は人それぞれだ。
苫米地式の考え方とToodledoは親和性があると思っている。
それはゴールという項目があって予めタスクをそのゴールに分類しておくことができる。
逆に言えばゴールに沿わないタスクというものがあってはまずいということだ。
髪を切るのだって、掃除するのだって自分の人生の最も抽象度の高いところとリンクしていなければならない。そうやってゴールに突き動かされる感がいいと思っている。
ところで、タスクではないものをどうするかという部分がとても困った。ノートという機能やアウトライナー、リストなどToodledoには様々な機能があるものの・・・。うまく使いこなせない日々。
つまりGTDでいうところの書き出すという作業に関してだが、これは単純にタスクとはならないようなものまで書き出したいという思いにかられているからだ。
◯◯が気になる、あれをどうしようか、等々頭の中に流れるすべての思考をアウトプットして整理したい。
んでNotionをしばらくいじってみると色々と便利なことがわかった。
そんでもって今の所どういうフローにするかというと
まずInboxですが、テンプレートのリストというものを使うことにした。
罫線で区切られた感じのものです。ノートでもなければ看板でもなく、チェックリストでもない。
ここに洗いざらい思考のすべてを書き出します。
ここでは簡易なタグ付けなどもできるようです。そこで、次にその箇条書きしたものをタスクとそうでないものに分けていきます。
考え事などはノートというページにドラッグアンドドロップし、タスクはボードというテンプレートのページに移動させます。
僕は既存のテンプレートのタスクリストというものを使っていません。ボードというものでタスクを管理します。
Notionのもともとあるタスクリストには看板のなかにチェックリストがあり(普通のTodoでいうところのサブタスク的な)複雑なものを扱うのにはいいんですが、サブタスクがいらないものはボードのほうがいいと思います。というかサブタスクをつけて階層化するのを避けるためにボードを使っているわけです。
今の所こんな感じで機能の1%も使っていないかもしれないんですが、まぁこれで十分です。
タスクを更に細分化(勉強とそうでないもの)してもいいかもなと考え中。
ファイルをアップロードするタイプの人間ではないので無料で今のところ十分かな。
Notionには第2の脳になってもらう。あ、ハビットトラッカーとしても使うかもな。
とにかくカスタマイズ性がすんばらしいのとソート性も優れているのでレビューがしやすいかと。
まだ日本語化もしてないんで日本ではそんなには流行ってないと思いますが、うーん長く使って馴染んでいきたい。
勉強とタスク管理の相性の悪さ。
勉強にも一部タスク管理が浸透してきているような気もしてますが、実際のところ適切なものをあげろというと困ってしまいます。
仕事と違ってやろうと思えば際限が無いものが多いからです。そもそも終わりとは何を指して終わりなのかが見えにくいというのもあります。最後まで解き終わったからはいおわりというわけにもいかないので。
月次の目標を建てるのと同時にTodoに落とし込めるようなものって意外とないんですよね。
例えば今日から1ヶ月で1冊問題集を終わらせようと行ったときに、リピートタスクかつ期限が1ヶ月後、つまり1ヶ月後までは毎日リピートしますというタスクを作れるアプリはそうありません。
Todoistはなにげにできるのですが、例えばToodledoだと期限を入れ、リピートタスクを作りチェックを入れると新しく生成されるタスクの期限は元のタスクの1日後となってしまい、これでは使えません。明日のタスクも期限は同じ日というリピートタスクを作れません。
Todoistでは例えば
タスク名 今日から6月29日まで毎日
上のような文章を入れると自動でその日がくるまでリピートタスクを生成します。
このような機能を搭載してるアプリは実は少ないのです。多くの人にとってこのようなタスクは必要ないのでしょうか?
それならTodoist使うか〜とも思ったのですが、有料でしかも買い切りじゃないというのがネックでずっと使い続けるのはな〜と思ってしまいました。でも上の機能は無料で使えるので単純にそれだけで使うなら悪くないかもしれない。
で、盲点だったのが、この機能たすくまにあるやんけということでした。
たすくまではリピートタスクの開始日と終了日を決められる。つまりその日まで毎日リピートタスクを生成し続けるということが可能。
たすくまとポモドーロの相性は良くないです笑なので勉強の管理はポモドーロに一任させて、たすくまには単に勉強としか登録していませんでしたが、これからはリピート機能を使って月単位で続ける勉強の管理をしていこうと思う。
Toodledoとたすくまが今の所一番いいような気がしている。
Toodledoのソート機能は本当に神がかっている。必要な情報を一瞬で集められる。
最も重要なことは、全てを見渡すことができること、なるべく階層化しない(複雑化しない、1ページにすべてがまとまっている)、必要な情報を瞬時に引き出せること。
これだけソートの方法があれば見たいものをいつでも見られる安心感があるので安心してToodledoにすべてを打ち込んでおけます。
色々とツールに翻弄されるひともいると思いますが、羅列が基本だと思います。なぜか理路整然としたものを思い浮かべる人がとても多いのですが、僕はそれは無理だと考えます。
そうではなくてとにかく考え事から何からすべてが羅列してあればあとはそこから何を取り出すのかというだけの話になります。ですから兎にも角にもすべてを吐き出し、目印を付けて置くだけで良い。バラバラに羅列してあっても目印を目的として呼び出せれば散らかっていても構わない。分類してきれいに並べるとかえって見たくないものを見ないことになってしまう。
汚い部屋にしておいたほうが自分が見たいもの以外のものも目に入りやすい。
GTDの手法ですと一週間後のタスクだとか1年後だとかいろんな分類をしていますけど、じゃあそういうリスト作ったとして見ますか?という話なんですよね。前も書いたけどタスクの量なんてたかが知れてるわけですからすべてのページを毎日ざっと見ればいいだけです。
きれいな分類よりも呼び出し方が問題。呼び出せるなら整理は不要。
無論これは紙ではなかなか難しいのでツールに慣れるしかないです。紙はシンプルでいいんですけどね。自分は完全に紙派でしたが今後を考えてツールに慣れることを選びました。
Toodledoの使い方はまだあるのですがそれはまた今度。
9月入学は問題の先送りであって解決策ではない。
思うところがあって、9月入学について色々と考えている。
僕は基本的には反対である。
そもそも9月に収まっている可能性なんか無いではないかと言われることだが、それはそれとして結局これが10月だろうと11月だろうと同じことなのである。
コロナのワクチンができるまでは何ヶ月先送りにしようが、同じことなのである。だからやるとするならオンライン授業等の整備。
例えばコロナではない別の未知のウイルスが9月に流行った場合、次はどこへ移動するのかという話になり根本的な解決にならないのである。だったら現行制度は維持したままどうにかやっていく方法を考えるべきなのだ。
グローバルスタンダードに合わせるなら、それはそれで別に議論すべきであって今するべき議論ではない。
よって9月というものの根拠があまりにも薄弱ではっきりいうとグローバルスタンダードに合わせるということを無視したらなんの根拠もない話なのである。
この2ヶ月程度の遅れをどう取り戻すか、課題をどうするか考えたほうがまだマシなのである。
そういうことを考えたくない人たちが、9月入学?いいんじゃない?そのころにはコロナもなんとかなっているでしょという安易な願望だけを根拠に推し進めようとしている。
グローバルスタンダードにしたってこれからはわからない。今流行っている欧米の国々が逆に9月の入学をやめて4月へ移動させる可能性だってある。そうしたときグローバルスタンダードという根拠さえ失うのである。
いますべきことは一日でも早く学校を再開し子どもたちに教育を施すことである。今すぐだ。
そのことだけを考えるべきだ。制度の改革など話し合っている暇は無い。特に中高3年生を卒業させることである。最終学年以外は来年まで含めて取り戻せるような教育をする余裕がまだある。もちろん休みは減るが、それは仕方がない。
命の選別でトリアージという言葉をよく耳にするが日本はどれを活かしどれを犠牲にするか選ぶべきだ。人の命に限らず、そうだ。
なぜアフターコロナばかりが語られるのか。
現実の問題を把握し対処しなければならないのにも関わらず、コロナが終わったあとどうなるとか、日常はもう戻らないとか言われる。本当にそうだろうか?
僕は今この場であらゆることを決断する必要はないと思う。必要なのは現実への対処だ。
にもかかわらず、この現実への決断を先延ばしにして、あとあとのことを考えてあるいは問題を先送りにするための決断だけが先行しているように思える。
保守的な人間だと思われるかもしれないが、まずは常態への復帰を目指すべきである。
それはもう無理なんだと諦めてしまって、さぁコロナ後の世界をどうしようだとか、とりあえず自粛を延長しようだとかはっきり言って愚策に近い。
いますべきことはコロナ収束後世界がどう変わるか話すことでも9月入学にすることでもないはずだ。今まさに学校を再開させるにはどうするか、仕事はどうするのかということを現実的に話すべきである。それをすべてほっぽりだして先のことを話すからだめなのだ。
今のパニック状態にある我々が先々にまで影響するような大きな決断をすることは控えるべきである。それは法律でも制度でも同じこと。必ず道を踏み外す。冷静ではないからだ。
こういう状況下において、やたら決断主義が横行するのは我々が決断したり変えることによって良くなるはずだという妄想に陥りやすいからである。
実際には良くなる可能性も悪くなる可能性もあるはずなのに後者が見えない。
とりわけ平常時に語られて来なかったようなものがここへきて急浮上したりするのは大変危険である。
海で遭難した人が飲水が無くて、海の水を飲むようなものである。実際には海の水を飲むと余計に喉が渇くだけなのだが、水がなくなるとわかっていても飲んでしまう。
今急に出てきた9月入学などはその典型である。平常時は誰も9月入学にしたほうがいいなどと思わないし話さえしない。ところがこういうパニック状態に陥るやいなや最善の手であるかのように見える。
落ち着くべきだ。あらゆる大きな決断は封印すべきである。やることは現状への決断だ。
観察と集中
まほー工房の様々なワークをやるのもいいですけれど、それよりもなによりもそれ以外の日常をどう生きるかという視点が無いと無に帰すだけです。
これはすべてのことに言えて、坐禅にしても何にしてもそれをやってるときだけちゃんとして普段何もしてなければ意味がない。
そういうわけで昨今のマインドフルネス()なんかは無駄なのです。やってるときだけ集中してそれが終わればまたいつもの日常に戻っていく。言うなればストレスフルな日常をこなすための手段になっているだけで、あれは本来の目的を逸脱しています。温泉入って気持ちがいいのとなんら変わりません。それでいいという人を責めるつもりは一切ないですが笑
最近苫米地英人氏繋がりで、成瀬雅春先生の本をいくつか買いました。なんとなく自分が思っていたこととかなり合致することがあって、これは実践していくつもりです。
坐禅は難しくて困ったのですが、それは自分の能力が足りてなかったからだとわかりました。
その能力とは観察と集中です。坐禅指南本とかでもただ坐ることを重視していて、観察や集中はむしろあまりよくないものだと自分は勘違いしていた。でもただ坐るために観察と集中が必要なのだと、わかりました。受動状態を作るために観察と集中をする。禅とは生き方だというのと同じだと思う。生活自体に観察と集中を働かせていることが大事。
まず観察とは自分が思っていること、考えていること五感、それらを見るということです。
このへんヴィパッサナーぽいなとも思うのですが、もっと受動寄りな気がしないでもない。なんていうか、ラベリングまではしないほうがいいのではないかと思う。苫米地英人氏の本でラベリングのことも書いてあったが、個人的にはしないほうがうまくいくような気がしている。
これが雑念、これは〜とやっていくと偏見がうまれるというか、そういう思い一つ一つに対して無分別に観察することのほうが精神衛生上良い。あれも雑念、これも雑念!とラベリングしているとなんだかいい気分にならない。それにラベリングしたから消えるわけじゃないし、またふっとわいてくるから。とにかくそういう思いがあるということを消そうともせず、その思いにコミットすることもなく確かに意識に上げるということです。これは通常の生活で常にやっていくべき。
次に集中。ある対象に注力することで、これは普段言われている集中と意味が変わらない。ただしこれは観察よりも能動的な話。成瀬先生の本に書いてあるやつはどこでもできるのでおすすめです。
観察と集中ができて初めて受動状態に入れる。
それと瞑想と認知科学の教室でイメージと意識の違いを説明していてめちゃくちゃ参考になった。イメージは実感を伴わない、意識は実感が伴う。これめちゃくちゃ大事です。
必要なのは意識です。実感とは五感で感じるぐらいリアリティがあること。俺とか大抵の人はイメージで終わるからうまくいかないのだとわかった。
何かを意識するということと何かをイメージすることでは雲泥の差があるわけです。通常我々の妄想っていうのはイメージであって、実感がありません。レモンを想像するだけでよだれが出てくるほどのリアリティが普通のイメージの中には無い。レモンにしたって大抵の人は五感フルで想像することは少ないでしょう。
だから意識というのは実際にはかなり難しい。実際の皮膚の感覚はどうか感触は匂いは味はどんな音がしてどんな気持ちか、これらを確かな実感として意識する。雑念の入る余地がないんですねこれは。だから観察と集中の力が必要になる。
成瀬先生の教室通いたいなぁ。値段も安いし。
思想なき実践と実践なき思想、現世利益との整合性について
思想と実践とが車の両輪のようになっていないと僕は動かないのだとつくづく思いました。
僕は仏教が好きだし、具体的にどこの信徒というわけでもないのですが全般的にそれを思想として受け入れています。他方でこの思想を受け入れたからといってそれを実際に生活の中で実践することは大変なわけですよ。そりゃ出家して一日中管理されればこれほど良いものはないでしょうけれど。出家するわけにも行かないし。
じゃあ他方でライフハックだの自己実現だの読んでみたって両端が欠けているわけです。
両端とは生(誕生)と死です。それではいくらその実践テクニックがあろうがなかろうが、最終的に死ぬのにどうして?と言わざるを得ない。死ぬのになんで・・・と。
こんな面倒くさい人間なのでなっかなか納得しないわけですよ。
皆さんも自己啓発本やら宗教本読んだらわかります。今流行りのマインドフルネスだのもみんなそうです。このどちらからに集約される。
理屈で納得し、実践で納得するというこの2つが如何に難しいのかということです。
今ここにありましょう〜的なものだってじゃあなぜ今ここにあることが大事なのでしょうかという問に理屈じゃありませんなどと言い始めればそれはもう何でもありになってしまう。
そこにあるのは形而上の話でしょう。
その点で稀有な存在なのが苫米地英人氏です。僕はこの方の商材は買ったことありませんが、本は何冊か読みましたしYou Tubeの動画をいくつか見ました。仏教思想もかなり入っていますが、それだけではない学術的な要素も入っている(ただし、この学術的な部分は現在ではオカルトと思われるような(情報空間の話など)側面まで入っている)。
最大の難関である仏教思想と現世利益との整合性に密教的な部分を持ってきて思想的に体系化しつつあると思う。それがコーチングなのだと思う。
つまり苫米地英人的仏教とは現世利益などというものは所詮空だと徹底的に理解した上で、我々は釈迦ほどすごくない(釈迦ではない)と理解し、その上で煩悩を観察したままほどほどに受け入れてやっていく方法である。しかしながら、これはいわゆる普通の人が読めば単に自己実現を追い求めてる人と区別がつかないというか、そういった自己啓発本大好きな人が読んだら単なる煩悩丸出しにしかならない。ではそういう人と何が違うのかというと、それは本人確信度や臨場感が違うわけです。
これは外から見たら多分わからないのではないかと思うのですが、本人(少なくとも僕にとっては)にとっては差が歴然です。疑問を挟む余地を残さないということです。
どんなに煩悩を丸出しにして金だのなんだの求めたとして、それって結局なんの意味があるの?と思ってしまったら一気にしぼみます(とはいえ普通の人は楽しいんだからいいじゃん!となるとは思いますが)逆に思想だけ重視したら、なんの行動も起こさない人になってしまう。
ではまほー工房をどう使うのかというと、一つはコンフォートゾーンの設定と維持、ゴール達成したあとの世界の臨場感を上げるという方向には使えると思います。
コンフォートゾーン(自分が快適だと思う空間)
結構いろんな説明さていますけど、極端に考えてみるとわかりやすいと思います。例えば日本に住んでいる人が夜寝て、目が覚めたらアフリカの奥地にいるとします。そしたらどうでしょうか、最初は信じられないがこれが夢ではないことを理解する。そして大抵の人はそこから自分の家に戻ろうという強烈な意識が働きます。このときコンフォートゾーンは日本での生活にあるし、臨場感は目の前の景色よりも日本での生活のほうが圧倒的に上なわけです。つまり現在目に見えている世界(アフリカのジャングル)よりも頭の中にある日本での日々の生活のほうが自分にとってリアルなわけです。
もうすこし考えてみましょう。東京に住んでる人が夜寝て目が覚めたら大阪にいたとします。
これでもかなりの驚きがありますが、先程よりは全然ではないでしょうか?戻る方法も簡単にわかるし、言葉も通じる。
この比較から分かることは、コンフォートゾーンから離れれば離れるほど(そこに戻そうという)強烈な意識が働く
臨場感は目の前に見えているものよりも頭の中の記憶や情報に対して強く感じることがありうるということです。
ではコンフォートゾーンを現在にしたまんまだとどうなるかお分かりでしょう。もし現在の生活がコンフォートゾーンでそこに強烈な臨場感を感じていたら、もしゴールや欲しい物を掲げても意識は強烈にコンフォートゾーン(現在)に戻そうと思います。
例えば今の年収が1000万で、1億の目標を掲げたとしてもコンフォートゾーンが1000万ならば仮に1億になったとしても、1000万に戻されてしまうということです。宝くじ等々でよく破産している人がいるのはこのためでもある。コンフォートゾーン(貧乏人)に引き戻されてしまう。
ゴールに対するコンフォートゾーンを設定し、そこに強い臨場感(ゴールのほうがリアル)という状態を常に維持する必要がある。
でもこれは通常簡単ではないです。先程のいきなりアフリカとかいう特殊な事例を考えてみましたが、通常どう見ても自分の目の前に見える世界のほうが圧倒的にリアルです。当たり前です。今目の前にあるもののほうが頭の中にある情報よりリアルと言われたらそりゃそうだとしか言いようがない。例えば金持ちになると目標を掲げて、自分の財布を開くとクレジットカードも普通、お金もそんなに入ってない。これを見て当人に、なんの感情もわかないのだとしたらコンフォートゾーンは現状にあるということです。コンフォートゾーンがもし本当に金持ちになっていてそこに臨場感があったら、財布を開いて驚きと焦りがあって当然です。なんで俺の財布にこんだけしかないんだ、おかしい。財布にブラックカードがない、盗まれたか?と思うでしょう。これをどれだけ臨場感を持って思えるでしょうか?と言われれば相当な難しさがあるし、それを日常ずっと続けることってのは容易ではないです。
ですからゴールを掲げることよりもそのゴールを達成したときのコンフォートゾーンをリアルにし、かつそれに臨場感を持つということ(理屈)が大切なわけですが、その点を書いている人はなかなかいない。もう叶ったものとして普通に過ごしなさいとか、あるいは徹底的に刷り込むとか。どちらもこの辺を曖昧にしている。
自粛中なので、たくさん書いてしまってまとまりがないですが、許せ。
GTDにおける収集のためのツールは何が良いのか
よく言われることですけど、紙のほうがいいとかデジタルのほうが利便性がとかありますが、これはどれだけそのものに慣れ親しんでるかによるのではないかと思っております。
つまり紙をずっと使ってきたような世代は紙、パソコン世代はパソコン、スマホ世代はスマホなのではないでしょうか。
ぼくはやっぱりスマホは結構抵抗があります。少なくとも確認には使えてもメインで管理するためにこれを使おうとはあまり思いません。
逆に紙は書き出して終わり、あー気持ちよかったで終わってしまうことが多いです。紙はとにかくレビュー性やソート性検索性が皆無ですから、そこには根気がややる気が求められます。
パソコンはその中間と言ったところで僕がもっとも慣れ親しんでるツールでもあります。
そして画面サイズも申し分ない。それならiPad Proもいいんじゃないかと思うのですが、今度は入力性の問題があって。メインはパソコン、出先でスマホがいいんじゃないかと思っている。
そしてできる限りスマホから離れるというのも重要かなと。